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【第15話】ボクの保存期〜今、CKDを生きるひとたちに・5
2014.7.28
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約束
2005年の夏、私は家族と一緒に神奈川県横須賀市にある猿島を訪れました。かつて太平洋戦争期には砲台等が設置され基地化された小さな島ですが、今は自然も多く都会では見ないような甲虫やカタツムリなどいて、当時小学校に上がる前の息子は大喜びでした。
島には小さな海水浴場があり、海の家で冷たいジュースを飲みながら、家族三人のんびりと海を見ていました。猿島があるのは東京湾の中ですが、ここは都会からは離れていて、透明な海面が陽光にキラキラと魚の鱗のように反射して、まぶしく輝いていました。
これならちゃんと水着を持ってくれば良かったと、私は思いました。
シャント手術をした左腕の傷跡をさすりながら、私はかみさんと息子に言いました。
「このまま来年も透析を受けずに済むようなら、今度はここへ水着を持って泳ぎに来よう」と。
でも、それは叶えられませんでした。
シャント手術のための入院
話は少し遡ります。
主治医から「クレアチニンの値からするとそろそろシャントを作る必要がある」と言われました。今までの経験からクレアチニンの値の上がり下がりは常にあったことから、今回も下がるのではないかという期待が私にはありました。今度も様子見で良いのではないかと主治医には言いましたが、今回ばかりは主治医は引きません。
「今シャントを作っておけば万が一の時に安心です。もしもシャントが無い状態で腎臓の状態が急激に悪くなったら、緊急透析は非常に辛い状態で行うことになります。首の付け根のあたりからカテーテルを心臓のあたりまで刺し、下は鼠蹊部から針を刺して串刺しのような感じで透析を受けるのは患者さんにとっても負担が大きいのです」
私は自分の首の根元のあたりをさすりました。そして股間のあたりに針が刺されることを想像して冷や汗が流れるように感じました。
主治医は続けます。
「体が(尿毒素で)辛くなってから透析を始めるのも不均衡症候群といって負担が大きいのです。透析そのものが辛い治療になってしまっては元も子もありません。シャントをとりあえず作っておけば、いつでも透析は受けられます。もちろん今までのようにクレアチニンが下がることも期待できますし、今回は作っておくだけ作っておきませんか」
主治医との付き合いは既に7年くらいになっていました。ここまで言われては断るわけには行かず、私は手術に同意することにしました。
手術は2005年4月26日に受けることになりました。私の37歳の誕生日です。
入院早々、脱走患者だと疑われる
2005年4月25日に大荷物を担いで大学病院の入院病棟に入りました。手術が終わればそのままゴールデンウィークというタイミングで、会社の休みを取ること無く入院するという手はずです。
当時はまだ大阪芸術大学の通信課程に籍があったので、入院中はレポートを書くことを考え、教科書や参考書をカバン一杯に詰め込んでいました。見た感じは旅行にでも行くような荷物の多さです。
病室に入るとすぐさま名前の書かれたバンドを右手に巻かれました。退院するまではこのバンドが外されることはありません。自分に商品タグでも付けられたような、なんだか囚人にでもなったかのようなヘンな気分でした。
荷物を片付け人心地すると、私は病院の中層階にある中庭に行こうと思いました。外の空気を吸いたかったのと日差しの下で本を読みたかったのです。まだ、パジャマには着替えていません。手には吉村昭の『冬の鷹』を持ち、ナースセンターの前を私服のまま通り過ぎて行きます。看護師さんの1人と目が合い、
「ちょっと出かけてきます」とにこやかに声をかけていきました。
これが良くなかったようです。私は単純に病院内の中庭に行くだけでしたが、看護師さんたちは私服のまま逃げ出したと思ったのです。1時間ほどして病室に戻ると大目玉でした。
「外出届けも出さずになぜ外へ出かけたの?」と詰問を受けました。私はこれこれと訳を話しましたが、しばらくの間は脱走患者のレッテルを貼られていたようです。
長かったシャント手術
入院後の翌日が手術でした。看護師さんが車椅子を持って病室に来ました。
「自分は別に体調が悪いわけではないのだから歩いて手術室まで行く」と伝えたのですが、
「病院の建物自体が複雑な構造で結構な移動距離になるし、帰りは歩けないことも考えられるので乗ってください」と強く勧めてきました。
やむを得ず、私は看護師さんの押す車椅子で手術室へと移動しました。人に押してもらう車椅子での移動はのんびりしたもので、手術前の緊張を和らげてくれました。
シャントの手術は左手首に行います。局部麻酔での手術なのでメスが”触れているような”感覚はあります。
「柔らかい、柔らかいな」としきりに執刀医が口にします。
当初、1時間くらいで終わる手術と聞いていましたが、なかなか終わる気配がありません。元来、血管が細いということもあり、静脈と動脈がなかなか繋げられないようでした。時折、血管の神経に触れるのか激しい痛みが走ります。
2時間が過ぎても終わる気配が無く、いっそ眠ってしまおうかとも思うのですが、痛みがそうはさせてくれません。
3時間が過ぎ、一旦終わりにしようということになりました。しかしシャントからはスリル音がありません。これ以上は患者の負担が大きいので、このまま閉じて様子を見たいと言うことでした。
私は執刀の先生に「長い時間、お疲れさまでした。皆さんもお疲れさまでした、ありがとうございました」と声をかけ、車椅子に座って看護師さんに押されて元来た道を帰りました。
「なんか上手くいかなかったのかな? 左がダメなら右に作ることになるのかな? 左手でもパソコンのキーボードは打てそうだけれど、ご飯食べるのは大変そうだな」
帰り道、車椅子がガタガタと音を立てるなか、そんなことを考えていました。 病室にたどり着き、ベッドに横たわると、看護師さんがステートを当てシャントの状態を診ると、かすかながらスリルがあると言いました。
執刀の先生や助手の方々、主治医の先生までもが病室にやって来て確認します。
「弱いながらもスリルはあるので、このまま血流が増えてくれればちゃんとしたシャントとして太くなるだろう」との言葉を聞き、やっと安心することができました。
私は車椅子を押してくれた看護師さんにお礼を言いました。
「きっと看護師さんの車椅子の押し方がシャントには良い振動になったんですね。お陰でスリルが起こったんですよ。ありがとう」と。
入院中のこと
シャントの手術を受けた直後にしたことがパソコンでの文章の打ち込みでした。持ってきていたのはミニサイズのノートPCで、片手を広げたくらいの幅のキーボードです。これなら片手でもキーが打てます。ただ、右手の甲に点滴の針が刺さっているので、ゆっくり打ち込まないと少し痛みが走ります。
どうにかその時の手術の様子をブログに書くことができると安心しました。片手で文章が打てるのなら、いざ透析が始まった時でも文章は書ける、そう思えて嬉しかったです。
入院中は非常に規則正しい生活をしていました。会社勤めをしていると、こうした時間を過ごすことはなかなかありません。せっかくなので入院中は無理をせずに、普段はできないことでたっぷりある時間を使おうと決めました。
朝は5時にはベッドを抜け出し、洗顔の後はデイルームで大学のレポートを書いていました。朝食は8時からでしたから3時間はたっぷりと物書きに集中できます。食事が終わるとレポート作成に関連する書籍を読み、レポートに必要な材料が揃えばまた原稿用紙に向かいます。午後はブログの文章をパソコンにポチポチと打ち込み、それが終わると夕食までの間は本を読んで時間を過ごしました。
当初は脱走癖のある要注意患者とのレッテルを貼られていましたが、いたって真面目な(笑)姿を見せると、次第に看護師さんたちからも信頼を受けるようになりました。基本、元気で手のかからない患者ということも良かったのだと思います。
場所がお茶の水ということもあり、レポート作成に必要な書籍を買いに三省堂まで出かけたりもしました。もちろん、事前に外出届けは出しました。今度ばかりはナースセンターの看護師さんたちは和やかに見送ってくれました。
『解体新書』を閲覧せよ!
大学病院には学生が利用する付属図書館があります。この病院の図書館にはとんでもないお宝が眠っていました。日本で初めての医学翻訳書である『解体新書』の実物があるのです。入院前からどうにかこの『解体新書』を閲覧できないかと計画していました。
私は病院の売店で三角巾を買い、別段吊らなくてもいい左腕に巻いておきました。図書館司書の同情を引く作戦です。芸術系の大学であれなんであれ、学生証があれば他校の図書館には入れます。問題は歴史的な資料であるあの『解体新書』を一学生に閲覧させてくれるかです。
司書の方には色々と交渉したのですが、どうにか許しが出たのは「戦後に復刻版として作られたレプリカなら」という結論でした。本物を閲覧しないことはないそうなのですが、そのときはたまたま担当教授が授業で使っているとのことで、レプリカで勘弁して欲しいと言われました。
しかし、本物の雰囲気は味わえました。書かれている文章は難解で難しかったのですが、人体解剖図の描かれた絵の部分は目を見張るものがあります。
その後、司書の方と話をしましたが、保管してある『解体新書』は、戦後のどさくさに神田古書街で見つかったものだそうです。それを大学関係者が購入し、資料として保管したのだそうです。
病室に戻って主治医に「解体新書を見せてもらってきました。レプリカでしたけどね」と報告すると、主治医は「そんな有名な本がウチの図書館にあったんですか!」と驚かれていました。
(この時の様子は、生き活きナビ 透析の友・本の紹介【1】吉村昭著『冬の鷹』に書いていますので、こちらも是非お読みください)。
入院中の訪問者
あるとき、評論家の鈴木邦男さんつながりで交流のあったフリーの編集者であるタミオさんと風見愛さんがお見舞いに来てくれました。2人とも独自の世界で活躍してきた女性で、ある種、独特な雰囲気を持っています。どういう繋がりなのだろうと、看護師さんたちが交代で覗き見をしていました。
タミオさんは、「くにー(鈴木邦男さんの愛称)にも声をかけておいたので時期に来る」と言いました。
しばらくして鈴木邦男さんが病室に入り、
「やあ、ファルコンしゃん、急に入院なんてどうしたんですか?」
「透析をうけるために左腕にシャントの手術を受けたんです」
「トウセキって、あの石を投げる…」
すかさず皆が口をそろえて「違います!」と返します。
「それはセンセイが学生時代にやっていたことでしょう」と言われてバツが悪そうにしていました。
帰り間際、入院中は退屈だろうから、と鈴木さんは1冊の本を置いていかれました。
『「世間」への旅 西洋中世から日本社会へ』(筑摩書房)という本です。
後で知ることになるのですが、この本の著書である阿部謹也さんは、歴史学者であり、人工透析を受けながら執筆活動をされた方でした。鈴木さんは場を和ませようとおどけていたんですね。
シャントの鼓動は小さなまま
シャントはかすかなスリルを感じる程度でしたが、時期に血流が増えれば安定するだろうということで傷口が塞がるタイミングで退院することになりました。手術そのものはかなり大変でしたが、一時の間、仕事を離れて自分がしたいことを十二分にできたのは貴重な体験でした。
このまま次の入院の時(導入透析のための入院)も、同じように過ごせば良い、そう考えて私は退院したのですが、この時から1年半後、実際の導入透析での入院は生易しいものではありませんでした。
次回はいよいよ導入透析開始の話になります。
この記事はどうでしたか?
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- 【第23話】息子が親の透析をどう受け止めてきたのか振り返る
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- 【第14話】ボクの保存期〜今、CKDを生きるひとたちに・4
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- 【第11話】ボクの保存期〜今、CKDを生きるひとたちに・2
- 【第10話】ボクの保存期〜今、CKDを生きるひとたちに・1
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