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【第8話】透析中の昔ばなし
2015.11.24
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血液透析は現代医療の中でも、とくに長時間の治療時間を要します。透析機器の改良や薬剤の進歩が続いているにも関わらず、一般的には1回4時間の身体的な安静を強いられてしまいます。在宅血液透析や腹膜透析よりも院内に滞在する時間が長いため、週3回(年間150回以上)の治療中は医療スタッフとの日常的なコミュニケーションが重要です。
その主たるものは「会話」です。私は13年間透析室を担当していますが、透析中の会話が思わぬ方向に進み、お話を聞いて深く感心することが少なくありません。
今回は私が患者さんから聞いた、透析中の印象深い昔ばなしをお伝えしたいと思います。ふたつともお二人の人生の激動期となった第二次世界大戦(太平洋戦争)に関わるお話です。
(注:患者さんの個人情報に関わる部分は一部を修正しています)
男性患者のAさんはすでに80歳を超えているとは思えないほどお洒落で、白髪をいつもきちんと整えている紳士でした。ご高齢になっても端整な顔立ちは、若いときには今で言うイケメンであったことを想像させました。
あるとき戦後**周年のマスメディア報道で話題になったとき「先生、私はね、あそこに居たんですよ」とおっしゃいました。戦争の記録映像として放送されることがある、昭和18年10月21日の出陣学徒壮行会です。明治神宮外苑競技場で開催された壮行会は、国威発揚を狙った戦時中の記録映画としても有名です。その会場を行進したことがあるとのお話を偶然聞いたのです。
「あの頃はねえ、喫茶店でコーヒーを飲んでいるとね、非国民だなんて特高(特別高等警察)のやつらが言うんだよ。まったく嫌な時代だったね」とゆっくり回想されるAさんは、当時は都内名門大学の学生だったそうです。コーヒー好きのお洒落な大学生だったAさんも、戦況の悪化で徴兵猶予を中止された大勢の学徒の一人としてあの外苑競技場を行進したのです。
秋の大雨でびしょ濡れになりながら、一糸乱れぬ隊列で土のグラウンドを行進する男性学生たちを記録映像でしか見たことがない私は、やや戸惑いつつもその様子を聞いてみました。戦争中に東條英機首相を始めとする指導部の前で学生がどれほど緊張したのだろうか、と素直に思ったのです。
ところがAさんのお返事はかなり予想外のものでした。 「いやあ先生、あの黄色い声だよ。女学生たちの。あんなに凄い声は聞いたことが無かったから本当に驚いたねえ! 」
入隊前まだ20歳前後の男子学生たちが懸命に隊列を組んで行進しているとき、観客席には多くの女性学生も動員されていたそうです。観客席の人々がどのような声援を送っていたのかは分かりませんが、Aさんは初めて大きな「黄色い声」を聞いたと懐かしそうにおっしゃっていました。
戦場で武勲をたてる軍人になるというような勇ましい気持ちではなく、若い女性の声が嬉しかったと思い出すAさんの表情を見ていて、私はとても悲しい気持ちになりました。本当にそのような過酷な時代があり、生死を他人が決めてしまう時間を生き抜いた人たちがいらっしゃるのです。
軍人として外地で戦死するかもしれない男子学生たちと、それを懸命に見守る女子学生たち。大雨の中で傘も差さず、びしょ濡れになりながら女子学生たちは武運長久というよりも無事の帰還を祈り、男子学生たちへ大きな声援を送っていたのでしょう。
私たちと生まれた時代が違うだけで若者が戦争で敵と殺し合い、民間人を巻き添えにし、命を奪われるかもしれない。歴史の不条理を嘆くだけでは解決できない現実の重さを「黄色い声」という言葉に感じました。
戦地から復員後、長年の企業勤めを経て引退されたというAさんは「今度は私の別荘に遊びにきてくださいよ」といつも誘ってくださいました。当時は診療が多忙でお伺いできないまま「息子と同居することになりまして」と他県に転居されました。
悠々自適にみえる老後を送っていらしたAさんから透析中に教えていただいた出陣学徒壮行会のお話は、過去は必ず現実につながっているという厳然たる事実を突きつけたのでした。
また女性患者のBさんは、戦時中に満州国に住んでいらっしゃったそうです。満蒙開拓団(1931年から1945年まで、いわゆる旧・満州国、内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者のこと)ではなかったそうですが、当時はビジネスを展開するために家族で満州国へ移住する例が少なくなかったとのお話でした。
しかし昭和20年8月の敗戦とソ連軍の侵攻により、Aさんの家族も父親を残しての逃避行をせざるをえませんでした。近現代史の書籍を読むと、ソ連軍や中華民国の占領等により朝鮮半島を南下しながら日本へ引き揚げる旅路は過酷と凄惨を極め、途中でさまざまな被害に遭いながら多くの方々が亡くなったそうです。
「お父さんがいつ頃たどり着くのかが心配で。お母さんと兄弟と一緒に、必死に逃げ続けたんです」と当時小学生だったBさんはおっしゃっていました。逃げるといっても敗戦後であり日本人というだけでも身が危険にさらされる状況の中で、Bさんの母親は幼い子どもたちを連れて生き延びるためにどれほどのご苦労をされたのかは現代の想像を絶します。
ショッピングセンターで駄々をこねる子どもの態度に苦労する私たちが、同じ過酷な状況下で生き抜けるものでしょうか?
その後父親もだいぶ遅れて無事に帰国できたとおっしゃっていましたが、終戦後となっても平穏な生活を取り戻すまでにはほがらかな笑顔に隠された幾多の辛苦があったのではないかと思います。
「私は他の人に迷惑をかけたくないんです」がBさんの口癖でした。透析中も我慢強くできるだけ自力で対応されようとするお姿は、戦後の引き揚げが大きな原体験ではないかと思っています。
コーヒー好きの大学生のときに陸軍へ召集されたAさんも、満州国に家族で暮らす小学生だったBさんも、戦争によって熾烈な苦難を経験されていました。そして現在の平和と繁栄、医療の進歩をしっかりと受けとめていらっしゃいました。
「私たちにこうやって(透析)治療していただけるのは、本当にありがたいことだわ」というBさんの笑顔は素敵でした。
ご高齢の患者さんから治療の必要上だけでなく、人生経験の先輩として色々なお話を聞くことで、私は医師としての責務をあらためて実感しています。医療という特殊な状況がもたらす人の出会いや偶然のご縁ではあるものの、人と人が生きた時間を「会話」によって共有する。戦後を含めて患者さんから教えていただく昔ばなしには、日本の近現代史が実際にどうであったのかという事実の伝達だけでなく、それぞれの人生が持つ重みを医師がどのように受けとめるかという本質も求められるのです。
医師は病気を診察しつつも、患者さんのご経験については謙虚に受けとめるべき職業だと実感する日々です。疾患の治療だけに熱中してはいけないし、昔は現在の有り様の理由でもあるのですから。
そのような全人的な感性をいつも忘れないようにしたいものです。
(身体の中に作られた特別で大切な血液循環について)です
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