私は蘇る腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのための じんラボ
【第1話】腎臓病発症から生体腎移植
2018.4.9
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最初に、少しだけ自己紹介させていただきます。
現在、世界遺産である富士山の麓に夫婦二人と猫一匹でひっそりと暮らしています。
毎月の通院は、高速道路を利用して約1時間かけてCAPD外来と腎移植外来を受診しています。
この体験談は、思春期真っ只中の中学3年、15歳の頃にネフローゼ症候群を発症し、そこからさまざまな苦難を乗り越えたお話です。
15歳、ネフローゼ症候群を発症
高校受験を控えたある日、部活もしてないのに身体が疲れ切っていました。体の芯に鉛を入れられたような疲労感でした。同居していた祖母の「若いのにいつまで寝ているんだ! 早く起きて家の仕事をしろ!」という言葉にも、反抗する気持ちも起こらないばかりか、身体を起こすことすらできませんでした。
保健の先生から渡された試験紙で検尿すると、蛋白の値がプラス3でした。そして病院に行くと、即入院と言われました。「大切な時期なのに」と、奈落の底に落ちていくように感じました。
結局1年間の入院生活とさらに1年間の療養生活を経て、2年遅れで高校へ進学。弟と同級生になりました。
次が高校3年の時、今度は膝関節症で3ヶ月間入院となり、その後は杖をついて通学することになりました。「なんだか私の人生って、得体の知れない何かに邪魔される」と感じ、希望が壊されていくようでした。
どうしても透析はしたくない
高校を卒業して少し経つと、保存期だった腎臓病に異変が起こりました。医師からは「そろそろ透析を」と言われ続けるようになりました。
血液透析をしないと生きられないことは知っていましたが、私はどうしても透析をしたくありませんでした。
「透析するくらいなら死んだほうがましだ」とずっと思っていたからです。
この頃の私の身体は、夜寝るとき横になって眠ることができず、座って眠ろうとしても眠れない状態でした。それでも、両親には言わないよう弟に頼んでいました。心のどこかで「このままでいたら死ねる」と思っていたのかも知れません。
最終的には肺に水が溜まり、血を吐くことになり、弟が両親に伝え、入院することになりました。
透析導入、それでも自分で起き上がるしかない
シャントの作製は運の悪いことに、若い医師の練習台になってしまい失敗されてしまいました。
結局、両腕の肘正中静脈を使っての透析となり、5時間もの間張り付け状態でした。
自分の人生が悲しくて泣いていると、若い看護師さんから「泣いていたって何にも変わらない。この状態からどうしていくか考えなさい!」と言われました。
言われた直後は、「なんていう看護師だ。このヤロー!」と、思いました。
いっぱい泣いて泣いて、そして気づきました。「そうだ! あの看護師さんの言う通りかもしれない。この先何があっても自分で起き上がるしかない。だったら生きてやる!」と思いました。
父の愛、生体腎移植へ
しかし透析はホントに辛いものでした。
身長162cmに対してドライウェイト42kgでしたので、突風が吹くと飛ばされました。また、食事をしていてもアゴが疲れ、食べることに疲れていました。途中で食べないでいると父が「食べないと死んじまうぞ」といい、私は「もう死んでもいい」と言い返す、困らす娘でした。親不孝者ですね。
こんな娘の状態を憂慮していた父は、私の知らないところで家族会議を開いてくれたそうです。家族の誰が私に腎臓を提供するのかを相談していたそうです。
結局、父が腎臓を提供してくれることになりました。
父50歳、娘23歳の寒い季節の頃、東京大学医科学研究所付属病院で生体腎移植を受けました。1983年1月10日は、私の2回目の誕生日となりました。
次回は「結婚」についてお話します。
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