寛容な心で普通に生きよう!腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのための じんラボ
【第1話】発症から透析導入まで
2019.3.18
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物心ついた頃から既に病気だった私は、健康な自分という状態を知りません、「腎臓病である私」が普通の状態でした。そのせいか、いろいろな出来事に対して寛容に生きてきたように思います。というか、受け入れるしかなかったのですね、逆らいようがないのですから。
3年間の入院、同じ腎臓病の子供達と過ごす日々
北海道に住んでいた3歳の頃、原因はわかりませんが血尿が出て「特発性腎出血」と診断されました。その後、気候や病気のことを考えて、5歳の時に一家で千葉に引っ越しました。その後腎生検の結果、IgA腎症と診断されました。
小学3年生の時に「長期療養が必要」と言われ、当時の国立療養所千葉東病院に3年間もの長い入院生活を送ることになりました。そこには大勢の腎臓病の子供たちが入院しており、院内学級がありましたので、病棟から通い勉強しました。同じような腎臓病の子供同士でよく遊び、行事などもたくさんあったので、寂しさはありましたが、さほど辛いものではありませんでした。ただ、家族は大変だったのではないかと思います。平日は母が週2〜3日、日曜日は家族揃って面会に来てくれていたので、2つ上の姉は寂しい思いをしていたのではないかと思います。
6年生になり退院してからは普通の学校に通いましたが、体育は見学、給食は食べずに母手作りの減塩のお弁当を持参し、修学旅行も参加できませんでした。
中学生からは病気を意識することなく過ごす
中学生になってからは制限も緩やかになり、給食を食べていました。体育も軽い運動ならできるようになり、修学旅行にも参加することができました。その後は高校、専門学校へと進み、普通の学生生活を楽しく過ごしていました。ただ、月1回の通院はずっと続いており、少しずつクレアチニンは上昇して、腎機能は低下していきました。両親は主治医から「いずれは透析になるだろう」と告げられていたようです。
私も漠然といつかは透析になるであろうことは理解していました。ただ腎炎という病気は末期にならないと症状が出ないので、普段は病気を意識することなく過ごしていました。
27歳、透析導入
経理の仕事に就いてからは、風邪をひく度に腎機能は徐々に低下していき、頭痛や吐き気などの尿毒症の症状も出てきました。保存期には厳しい蛋白質制限もしましたが、そんな努力もむなしく加速度的に悪くなっていきました。今から思うとわずかな時間稼ぎにしか思えません。実際透析に入ったほうが食事制限も緩やかになり、体も楽になったのですから。
そうしてクレアチニンが8mg/dLを越えた27歳の頃、主治医から透析導入の話がありました。覚悟はしていたもののやはりショックで、病気のことで初めて親の前で涙を流した覚えがあります。
主治医は、血液透析、腹膜透析、腎臓移植のメリット、デメリットを詳しく説明してくれました。私は両親と相談し、とりあえず血液透析を経験し、時期をみて移植しようということになりました。ありがたいことに両親も姉も私に腎臓を提供すると言ってくれました。適合性検査をしたところ、3人とも同程度の適合性で、特に高くもなく、かといって不可でもありませんでした。
シャントを作り、落ち着いた気持ちで透析が始まる
透析導入にあたり私は前もってシャントを発達させておきたいと考えていたので、お願いして導入のかなり前にシャントを作ってしまいました。シャント手術は日帰りで済みましたが、術後の夜は痛みと腫れと、これから始まる透析への重苦しい気持ちで眠れませんでした。
私の血管は元々太い方なのでシャントも順調に発達し、3ヶ月後に透析導入となりました。準備の甲斐あって導入は入院することもなく、落ち着いた気持ちで迎えることができました。
27歳の私に看護師さんが「泣かないでね〜」と慰めてくれたのを覚えています。もちろん私は泣いてなどいなかったので、妙に冷静な気持ちでその言葉を聞いていました。初めての穿刺は、その針の太さと痛さには驚きました。
最初は週1回3時間からだったので、あっという間に過ぎました。まだ尿量もあったので水分管理はとても楽で、体調もずっと良くなり、透析も存外大変ではないな、などと思っていました。本当の意味で透析の大変さを知るのはずっと後のことです。
導入から4ヶ月、週2回になってきた頃に会社を退職しました。その後、縁あってその透析クリニックで技士助手として働かせていただくことになりました。8時から16時まで働き、17時から透析を受けていました。何も知らなかった私は、クリニックで働きながら透析について少しずつ理解していくことができました。
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