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患者会ってなに?【第4回】患者会の歴史と歩み
2014.8.1
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こんにちは、アスペクト比Pです。今回のお話は患者会の歴史の話です、手持ちの資料を元に簡単にですがご紹介したいと思います。
人工透析の歴史は第2次世界大戦の時代にさかのぼります。1945年オランダのコルフ博士が数年がかりで開発した人工腎臓装置(コルフ型人工腎臓装置)である女性を救ったことがはじまりでした。その後朝鮮戦争の時に戦場で出血により腎臓に血が回らなくなった重症兵が急性腎不全を起こして亡くなるという事がありました。その際にこの人工腎臓装置が毒素を急速に取り除き、救命することが出来るということで世界各国の医療関係者に注目されるようになりました。とはいえ、当時はまだまだ技術的にも未完成な部分も多く、シャントも現在のような内シャントではなく外シャントが主流であるなど、今の人工腎臓装置と比べると患者にとっても非常に負担の大きい治療法でもあったのです。
人工透析が日本に導入されたのが1950年代と言われています、1970年代に入ると人工腎臓の存在は少しずつ知られるようになりましたが、必要とする患者に対して人工腎臓装置の絶対数が少なかったため、高額な治療費が家族の負担になることに思い悩んだ少年が、透析を行うことを拒否して家出するなどのニュースもあったほどです。この時期(1970年ごろ)に大阪、名古屋、新潟、広島などに患者会が結成されたという記録が残っています。
1971年当時、国内にある人工腎臓装置は1,575台 人工腎臓を必要とする患者総数は5,000人以上(一説では1万人とも)という状況下で全国の患者やその家族、関係者が集まって、結成されたのが全国腎臓病協議会(全腎協)の始まりなのです。
当時の全腎協が掲げた要求項目は次のようなものでした。
- 人工透析費用を全額国庫負担にする。
- 透析患者を身体障害者として認定する。
- 全国各地に腎センター(透析施設)を設置する。
- 長期療養者の治療費を保証する。
貧血で動くのがやっとの患者が自費で上京し、当時の厚生省や大蔵省に連日の陳情と要望を行う中で、代表者の旅費をカンパで集めたのが患者会における会費の始まりだったという記録があります。患者同士の切実な、明日を生きたいという思いが患者会の始まりであり、全腎協の始まりであったとも言えるのではないでしょうか。
当時の患者会のスローガンに「誰でも、いつでも、どこでも」というものがあります。 誰もが望めば人工透析を受けられ、ほとんど自己負担もなく、生活圏内で通院しながら治療を受けられる今の状況はいわば、先人たちの夢であり目標だったわけです。
その後も全腎協や各都道府県患者会は毎年の国会請願や関係官庁への陳情要望を続けて、さまざまな事を実現してきました。以前にもご紹介しました小中学校での検尿検査の義務化、腎臓移植の健康保険適用、エリスロポエチン(人工造血ホルモン)の健康保険適用、HDF(血液濾過透析)の適用などなどさまざまな事がそれにあたります。
ここまで、患者会の歴史について紹介してきましたが…。
患者会役員の端くれである私にも「患者会の歴史的使命は終わった」というご指摘をいただくことがよくあります。ですが本当に透析患者会の使命は終わったのでしょうか? 次回は私の書く「患者会って何?」の最終回となりますが、これからの患者会が出来であろう「透析患者と社会のために出来る事」を書きたいと思います。
参考
- 三木健二 著、大阪腎臓病患者協議会 編(2008)『ジン臓病との戦い : 原点を語り継ぐために』大阪身体障害者団体定期刊行物協会
- 創立40周年記念誌編集委員会 編(2010)『40年のあゆみ : 広島県腎友会創立40周年記念誌』広島県腎友会
- 有吉玲子(2013)『腎臓病と人工透析の現代史 ―「選択」を強いられる患者たち』生活書院
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