生かされている喜び 〜さまざまな方のお陰で透析を続けられ感謝〜腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのための じんラボ
【第3話】長男の死産と、私の透析導入
2017.3.6
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平成9年5月半ば頃にN病院を再度受診したところ、ついに即刻入院、即透析との診断でした。N病院の主治医に家内と胎児の事を説明し「入院は家内の出産を見届けてからにしたい」と言いましたが、「あなたも生きるか死ぬかの瀬戸際です」と主治医に断言され、入院準備のための帰宅だけは許してもらえるという切羽詰まった状態でした。
尿毒症であることは分かっていましたし、胎児の状況もどうなるか分からない状態だったので、その日のうちに“もうお互いに限界”を感じて、我が家のすぐ近くで一人暮らしの私の母に私と家内の現状をありのまま話しました。
母には何も伝えて無かったため、母は急に報告されて何事が起きているのか訳がわからぬままという状態でした。
家内も今まで無脳児かもしれないということを誰にも相談出来ずにいたものですから、堰を切ったように涙、涙での報告でした。
新しい孫が出来るはずだったのに、生きて生まれるのか、死産するのか、胎児がどういう状態で10ヵ月を迎えようとしているのかなどのお医者様の予想を、妻は大変伝えにくそうに涙ながらに話していました。
それに加えて私の透析導入が近いということ。
母はダブルで悪い報告を初めて聞かされ、ショックだったと思います。
結局私は5月25日に入院。家内は6月4日の予定日直前に私の病院から歩いて10分程のところに入院。長女(1歳7ヵ月)の面倒は、私の母と家内の妹が私の家に泊まり込みで見ることになりました。
入院してからの私はお医者様の言うがままです。入院翌日の早朝は、シャントを作っていないので太ももの付け根に麻酔なしでカテーテルを突き刺されての透析でした。この時は気分が悪くなり、もどしてしまいました。
最初の透析が終了し、何の数値かはわかりませんでしたがスタッフから「血液検査の結果が透析前より良くなっています」と言われました。
初めの1週間位は短い時間でしたが毎日透析があり、病室と透析室の往復で過ぎていきました。
そうこうしているうちに出産予定日の6月4日、透析中に義父が透析室を訪れ、私の顔を見て頭を横にふりました。後に家内から事情を聞くと、予定日に陣痛促進剤を投与され出産したのですが、お腹の中では生きていた胎児が出てくると同時に息絶えたとのこと。産科の先生の予測通りでした。
顔もあり体もあり手足も指先まであり、男の子ということもはっきり分かりましたが、頭だけがなかったそうです。診断はやはり無脳児でした。
家内、義父、義妹、私の母が、代わる代わる抱き上げた後、役所に手続きをしてもらい、火葬場でまだ生まれたての赤ちゃんを火葬してもらいました。
結局私は赤ちゃんを見ることもできなかったのですが、家内も火葬には立ち会えませんでした。それから家内は1週間入院の後、退院。家で産後の日々を過ごしていました。
2人が別々の病院に入院してからの連絡は、義妹を通しての手紙のやり取りでした。時間が経つにつれ、私も家内も少しずつ落ち着きを取り戻し、現実を受け入れていくようになりました。
その手紙のやり取りの中で、お互い感じるものがありました。家内は「赤ちゃんはお腹の中だけを体験するために宿ってくれたような気がする」と思っていたようですし、私は赤ちゃんの命が私の命として受け継がれた気がしました。
というのも後に母から聞いたのですが、再度受診した時の私の状態は「あと1週間遅ければ命はなかったかもしれないですね」と言われた程だったのです。
その話を聞いた時に「そうだこれは“与えられた命”なのだ、子供から戴いた貴重な命を無駄にすることなく、命を繋いでいかなければ」と思うようになりました。そういう風に思えるまでには2人とも時間がかかりましたが、あとは時間が解決してくれるのかな、と思うしかありませんでした。
義妹と母は約1週間泊まり込みで長女の面倒をみてくれ、感謝してもしきれない思いで一杯です。娘にとってはおばあちゃんと叔母ちゃんとの楽しいひと時のようでしたが、今となっては何も覚えていないようです。
結局これから後は子供を授かることなく一人娘となりましたが、人生にはさまざまな出来事があり、今の暮らしがあるのだなとつくづくと思いました。
次回は私の入院生活についてのお話です。
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