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ここまで出来た 腎臓病患者の仕事(移植者編)

【第5話】毎月の海外出張、そして出向

2013.9.9

文:ある

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前回は初めての海外出張の事をお話しました。その後私の海外出張(主に東、東南アジア)は連続して続く事になります。
今で言うサプライチェーンの改善活動をシステムの導入や活用によって実現して行く事が仕事でした。その為国内の工場を始め、海外の工場にも頻繁に行く事になったのです。
当時の主な行先は、東南アジアの拠点があるシンガポール、オーディオ関連の工場があるマレーシア、インドネシアの他、韓国(釜山)、台湾(高雄)、タイ(バンコク)、フィリピンでした。また当時から中国で生産する事も多くなり、香港、中国(広東省)などにも行く機会が増えました。

イメージ

前回も書きましたが、やはり移植者が心配なのは食事での衛生面です。マレーシアのレストランでは、頼んだお茶に入れる氷はゴザの上で砕いているし(砂っぽい)、食器はちゃんと洗っていないようだし(ただの付け洗い?)、社員食堂では残飯と材料の管理が同じだし、スプーンにはご飯がついたままだし、あげればキリがありませんが、こんな状態なので出来る範囲で気をつけるようにはしていました。
というのも衛生面の悪さから下痢などになると、服用している免疫抑制剤の濃度が下がり、拒絶反応が起こってしまう可能性があるのです。実際に私の周りにも、下痢が原因で腎臓がダメになってしまった人が何人かいます。そういう意味で非常にナーバスになっていました。
こんな生活が3年ぐらい続き、最後にはブラジルにまで行かせてもらいました。今考えると、よくあんな頻度(だいたい月1回ペースで1回1週間ぐらい)で海外に行っていたものです。

そんな中、会社の中で大規模な組織変更があり、その影響で組織ごとシステム開発の子会社へ出向する事になりました。この影響で仕事の内容もまったく変わってしまい、1年ぐらいはシステム開発関連の仕事となりました。あまり慣れない仕事という事、システムリリース前には毎晩終電ギリギリまで仕事をしたりして、結構大変な時期でもありました。
結局長続きせず、また同じような仕事をする為に、再度製造系の子会社(埼玉県)へ出向しました。ただここは以前と同じ仕事ができるし、出向といっても東京で以前と同じメンバーで仕事ができました。この頃から、再度海外で生産管理システムの導入や改善のサポートを行う仕事、しかも以前より長期で1か所に滞在するという生活に入って行きます。

2002年からの2年間は主にフィリピンで仕事をする事になりました。フィリピンには当社の工場は無いのですが、生産協力会社が進出しておりそこでの対応です。一度システム導入を行ったのですが、うまく運用が出来ていないという事でまた長期で滞在していました。
またこの時期には、具体的には書けないのですが、協力会社内の大きなプロジェクトにも参加し、赴任者のいないフィリピンの地方都市に一人で1ヶ月以上滞在するという経験もさせて頂きました。この経験で、海外滞在で仕事をする自信がかなり持てるようになりました。

その後は、2003〜2005年末までは、一年の半分以上は海外(中国・タイ)という生活になります。おかげで10年のパスポートが3年でスタンプが一杯になり、増刷するハメになります。一番大変な時(システム導入直前)は、10日連続出勤(ホテルに帰るのは夜中近く)、1日休んで7日連続出勤とかいう感じで、曜日の感覚が完全になくなっていました。
今記憶にあるのは2月に休出を含めて300H(1ヶ月に2ヶ月分働いた)とかで、この時は給料がボーナスみたいな金額でしたが、「金は要らないから休みたい」という感覚でした。
実際この勤務が終わった後は、少しクレアチニンが高くなり、当時は2ヶ月に1回の通院だったのですが、3週間連続で土曜日に通院するハメになりました。やはり無理は禁物です!

こんな生活を送っていた訳ですが、いろいろと社会の事情が変化してきて、2006年頃にはほとんど国内勤務に、そして出向先の会社が閉鎖となり、また東京勤務に戻る事になります。その後何回か中国に1週間程度の出張はありましたが、2007年からは仕事の内容も大きくかわり、国内を行き来する生活になります。

(つづく)

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ある

ある
1967年 宮城県仙台市生まれ。
小学1年生時の健康診断にて蛋白尿が出ている事が分かり、経過観察。中学1年生で蛋白尿が+3になる。高校3年生時に腎生検を行い、巣状糸球体硬化症(FGS)と診断され、そのままステロイドのパルス治療を行うが効果がなく、経過観察を続ける。大学3年生の時に透析導入。透析治療を受けながら就職活動を行い、電気メーカーへ就職。3年後に母親をドナーとして生体腎移植を実施。
2013年4月で移植後18年となる。

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