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ここまで出来た 腎臓病患者の仕事(移植者編)

【第1話】透析を受けながら(移植前)

2013.4.1

文:ある

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1992年4月、私は某電気メーカーに就職しました。新入社員という事もありますが、それも透析をしながらの社会人生活の始まりだった為、「他の新人と同じように働いていけるのだろうか?」という不安もありました。特に学生時代に通っていた透析施設の透析があまり合わず、透析終了後30分は動けず、やっと帰宅するという生活だったので尚更でした。私が配属された部署は事業部のシステム運用企画やシステム導入推進を行うところでした。学生時代バリバリの文系生活(専門は日本史)を送っていたため、こちらもまた不安材料でした。

透析には月水金の週3回、会社から徒歩6,7分のところにある施設に通いました。当時会社はフレックスタイム制を取っていましたが、新人には適用されず、8:30〜17:30の固定勤務でした。その為、17:30になるとすぐに透析施設へ向かい、18時〜開始する事が条件となっていました。私が通った施設は短時間透析を行っており、基本3時間半で終了します。(その代り回転数を300ml/分ぐらいでまわします。)大体21:30に終了し、止血などをして22時迄に帰宅するというのがルールでした(遅れてしまうとスタッフに迷惑がかかるので)新人なので、ある意味スケジュール的にタイトな仕事は少ないのですが、やはりミーティングが長引いたり、仕事が終わらなかったりする事もあります。その時はやはり後ろめたい気持ちで仕事を終えて透析に向かったりもしました。

当時私の配属されたチームは生産管理システムの導入企画などを主に担当しており、全国はもちろん、海外(東南アジア中心)の工場へ出張するような仕事でした。ただ透析をしている新人ですから、海外出張などは出来ません。必然的に国内担当になる訳ですが、当時の経験を書きたいと思います。

製造実習

電気メーカーの為、工場で1か月間の製造実習がありました。ただし透析がある為、特別に業務実習のような事をやりました。また工場から透析施設まで遠かった為、透析日は特別17時頃に退社する事を許してもらえました。私が実習に行ったのは埼玉県岩槻市。春日部のホテルに泊まって、会社バスでの通勤です。透析日は岩槻から大宮まで電車に乗って透析に通いました。金曜日はホテル宿泊が許されず、自宅へ戻る必要があり、透析後大宮から江戸川区まで戻ります。これが結構大変でした。

大分出張

学生時代に透析になった私は、旅行などあまり興味もなく、飛行機に乗ったのは、入社後の大分出張が初めてというありさまでした。基本1泊2日の日程で、透析日に夕方便で戻るというスケジュールです。一度帰りの飛行機が遅れてしまい、羽田についたのが19時過ぎ。慌ててタクシーで病院に駆け込みましたが、透析開始が19:30以降となり、この日は2時間しか透析が出来ないありさまでした。たまたま金曜日だった為、さすがに2日空ける事も出来ず、翌日午前中に残り分をやる羽目になりました。今でも苦い思い出です。

栃木出張

ここには2か月間、旅館に泊まり込みで長期出張していました。場所は鹿沼市でスピーカーを作る工場でした。近くに良い透析施設がなく、宇都宮迄電車で通いました。透析自体は特に問題ありませんでしたが、真夏の時期でとても暑く、バテ気味で仕事をしていました。また、通いの出張の時の帰り(透析日)に、全席指定の電車の予約がいっぱいで、本来は乗車できないのですが、透析に行く必要があった為、無理を承知で電車に飛び乗り、なんとか透析に間に合ったなんて事もありました。なんか苦い経験ばかりです。。。

通常時

私はカリウムリンが高く、月曜日の朝などは体が思うように動かなくなったりして、「はやく透析に行きたいな」なんて思いながら仕事をしていた事もありました。また体調が悪い時でも、透析施設が会社の側にあるので、とりあえず出社して、健康管理室で寝て、透析病院が開いてから病院に行くとか、休みの日でも1時間かけて透析に行くのが少し大変でした。ただ部内の同僚には大変理解してもらい、大変ながらも、特別扱いではなく、普通の人と同じように扱ってくれたのには大変感謝しています。長期出張以外にも透析時代に様々な場所へ行き、様々な経験を積ませて頂きました。そのような仕事を続けていく内に、もっと自分が活躍できる幅を広げたいという意識も強くなり、当初は漠然と考えていた「移植」を受ける決心をしました。入社3年目の秋にその意思を上司に伝え、快諾して頂き大変感謝しています。1995年4月11日、無事母親より腎臓移植を受ける事が出来ました。(つづく)

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ある

ある
1967年 宮城県仙台市生まれ。
小学1年生時の健康診断にて蛋白尿が出ている事が分かり、経過観察。中学1年生で蛋白尿が+3になる。高校3年生時に腎生検を行い、巣状糸球体硬化症(FGS)と診断され、そのままステロイドのパルス治療を行うが効果がなく、経過観察を続ける。大学3年生の時に透析導入。透析治療を受けながら就職活動を行い、電気メーカーへ就職。3年後に母親をドナーとして生体腎移植を実施。
2013年4月で移植後18年となる。

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