ここまで出来た 腎臓病患者の仕事(移植者編)腎臓病・透析に関わるすべての人の幸せのための じんラボ
【第2話】移植手術
2013.5.13
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前回は移植前の話をさせて頂きましたが、今回は移植手術から社会復帰までをお話しさせて頂きます。
当時私は移植の事をほとんど知りませんでした。知っているのは、移植をしても「拒絶反応」が起きる危険があり、移植した腎臓がダメになるケースがある事、免疫抑制剤を一生服用する必要がある事ぐらいでした。まず最初の問題はどの病院で移植を受けるか?ですが、以前から心に決めていた病院がありました。それは東京女子医大病院です。そう、腎臓病の方であれば多分どなたでも知っている?、あの「太田和夫先生」がいらっしゃる病院です。その名前は私が中学生ぐらいの時から、仙台の田舎町まで轟いていました。腎臓病、透析、移植の神様的な存在です。そこで透析病院で書いて頂いた紹介状を手に、1994年10月に東京女子医大を訪れました(残念ながら主治医は太田先生ではありませんでした)。次に誰がドナーになるか?という問題ですが、やはり当時の無知もあり、「血液型が一緒」との理由で母親が名乗り出てくれました。後で知ったのですが、血液型違いはもちろん、ABO不適合でも移植が可能でした。また肉親同士(親か兄弟等)でないと移植は出来ないと思い込んでいたのですが、夫婦間移植の方も結構多く、当時は大変驚きました。(夫婦間、血液型違い、HLA抗原ノーマッチという方もいました)。一番最初の診察でドナーの適合性を検査し、特に問題ない事が分かり一安心。。。と行きたかったのですが、ここで大きな問題がある事が分かりました。
それは私の原疾患である糸球体巣状硬化症(FGS)の場合、移植してもすぐに再発してしまい、移植した腎臓がダメになってしまう確率が高いという事です。当時の主治医からは、50%の確率でダメになると言われ、この確率でも移植するかどうか次回の診察までに決めてくるように言われました。後からのイメージですが、実際FGSの人はかなりの確率で移植腎がダメになっていました。ただし、会社の上司にも移植する事は言ってしまったし、私の心は決まっていたので移植に踏み切りました。(今思うと半分奇跡というか、悪運が強いというか、何も知らないという事は恐ろしい事です。)
という訳で初診から半年後の1995年4月11日(火)、無事移植手術を行う事が出来ました。当時はベッド上安静が1週間と非常に長く(今は3日程度)傷口はほとんど痛くなかったのですが、腰が痛くて、私は数回に渡って鎮痛剤を打ってもらいました。(本当は鎮痛剤の打ちすぎは良くないのですが、我慢できませんでした。)1週間経ち、初めて自分の足でトイレに行き、髭ずらの顔を見たときの第一声は「顔色が違う。。。」でした。また自分で排尿が出来る喜びがとても強く、膀胱が小さい為、何度もトイレに通う羽目になるのですが、トイレに行くこと自体が嬉しかったです。(夜寝れないのは大変ですが。。。)その後は比較的順調に予後が経過し、5月上旬には退院する事が出来ました。退院後は週に3回の通院が続きます。その後1週間に2回、1回、2週間に1回と減って来ると、社会復帰となる訳ですが、仕事復帰の話が出てきた6月後半、クレアチニンが1.6→2.0と跳ね上がり、残念ながら入院生活に戻ってしまいました。思えば当時は再入院する患者も多く、金曜日に退院して、翌月曜日の外来検査後に即入院など、笑える話も多数あり、まだまだ予後管理が難しかった時代だったと思います。私も拒絶反応と診断され、ステロイドのパルスはじめ、当時では非常に強い抑制剤を使っての治療が続きました。結果3度の拒絶反応を何とか乗り越えましたが、退院は8月前半まで伸びてしまいました。会社には3、4ヶ月目途で復帰と伝えていたので焦りも感じ、ちょっと大変でしたが、9月から復帰しました。
ただ、会社側としても、移植患者を扱う事に慣れていなかったようで、復帰した最初の頃は、「会社に来るのが仕事」みたいな感じで気を使ってもらったようです。今考えると本当にありがたいと思います。その割には復帰して7か月後の、1996年4月(移植1年後)、大分への半年間長期出張を命ぜられたのでした。結構無茶な事やらせます、この会社は(笑)(つづく)
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