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【第1話】小学1年生、腎臓病は突然やってきた─高校2年の透析導入まで─
2023.12.18
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初めまして、スーさんと申します。
私は、小学校入学時の尿検査で腎臓病がわかり、その後アルポート症候群と診断されました。17歳で血液透析を導入し、17年の透析生活を経て34歳で献腎移植を受けました。現在48歳、3人の子供のお父ちゃんで、臨床工学技士をしています。
同じような病気の子供、その親御さんに、私の人生経験が少しでも何かのお役に立てればと思っております。
小学1年生、突然の入院
小学校へ入学したばかりの7歳の私は、友達100人出来るかな~なんて楽しみとは裏腹に、大学病院に連れて行かれ即入院となっていた。入学時の尿検査で蛋白、血尿が出たためだった。
何が何だか分からず、きっと不安だったのだろう。ずっと泣きながら「お母さん~」と叫んでいたことをよく覚えている。
この入院で何が一番辛かったか。採血、点滴、腎生検など色々と痛い検査があったが、なによりベッドの上での絶対安静が一番辛かった。自覚症状もなく元気で、活発に遊びまわっていた7歳の男の子に、じっとしているよう強いるのはなかなか難しいと思う。食事もベッドの上で食べ、トイレにでさえも歩くことは許されなかった。
安静度が徐々に解除されると、同じように入院している子たちと仲良くなって、ゲームをしたりプレイルームで遊んだり、一緒に勉強したり…入院から1ヵ月経つ頃にはすっかり入院生活に慣れていた。
夏休み明けに退院し、9月から小学校に戻ったが、運動は禁止だったので体育はいつも見学。遠足や運動会も欠席で、行事のある日は家で1人ゲームをしていたことを思い出す。
夏休みは、子供ならみんな楽しみなものだと思うが、私は毎年治療のために入院していたため病院で過ごした思い出しかない。薬の副作用でムーンフェイスになり、学校ではからかわれたり悔しい思いもたくさんした。だけど、病気を理解してくれる友達もいたし、絶対負けないという強い気持ちがあったから、色々と嫌なことがあったけど学校は楽しかった。6年生最後の修学旅行、これだけは絶対参加したかったので担当医にお願いし、許可をもらい参加した。旅行らしい旅行はこれが初めてだった。
中学生になると勉強も忙しくなってきたので、入院は3年間せず、外来での診察と投薬治療だけで過ごした。
高校受験については、学校の先生から「病気があるから近い高校にしなさい」などと言われたが、病気のせいにしたくなかったので、少し遠くても行きたい高校に決めた。中学校でも修学旅行には参加できたが、これが最後の修学旅行となった。
高校生になり、透析導入と言われ…
高校生になっても診察と投薬は変わらなかったが、この頃より医師から「クレアチニン」という言葉が出てくるようになった。2週間に1回通院していたが、徐々に数値が上がってきていると伝えられ、初めて「透析」という言葉を耳にした。まったく自覚症状もなく元気だったのであまり気にしていなかったが、数値は上がる一方で、医師から「透析導入の準備をしましょう」と告げられた。
私は高校にも普通に通っていたし、どこも痛くもなければ苦しくもない。なのになぜ透析なんだ? と治療を拒否した。
何かの間違いだと思い、母と何ヵ所か違う病院へ行き診てもらったが、結果は同じ。
それでも納得がいかず、透析から逃げ回っていた。いつ何があってもおかしくない状態だったのか、担当医から学校に電話まであった。担任から呼び出されすぐに病院に行くよう諭されたが、それでも行かなかった。だけど不安もあり、夜な夜な1人ベッドで「なんで俺だけこんな目に」と泣いていた。
少しでも透析の導入を遅らせたいと、食事を目いっぱい制限し、どんどん痩せていった。
ある大学病院に行ったとき、透析や移植について初めて詳しく話してくれた看護師さんがいた。そこで「楽になろうか。ご飯おいしくなるよ」と言われ、些細な言葉だったが気持ちが楽になり、透析導入を決めた。
通っていた病院に戻り、すぐに入院し透析導入となった。シャントなど作っていなかったので脚の付け根から針を刺して、透析が始まった。その姿をみて、母は泣いていた。今でも忘れられない。
高校2年17歳の12月30日のことである。病室はガランとしていて、私はただ一人、新年を迎えようとしていた。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
辛いことばかり記しましたが、安心してください。私は今幸せだから…。
次回は、透析をしながらの学校生活と就職活動についてお話しします。
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